mamimpの研究帳

個人的にまとめたいものを記事にしています。

どうか私がもう一度がんばれますように

 “善人”は本当に真心で生きていた。自身が信じる世界というレンズを通して、歪んだ他者を見つけ、相手に寄り添い、相手を励まし助ける。それはまぎれもなく善であった。で、あった。

 こんなに良い人なのに、どうしてこんなに怖く見えるんだろう。私の事を一生懸命応援してくれる目の前のおじさん看護師は、全身を歪ませイヤな臭いを発してしまっている。そんなに心配しなくても私は大丈夫。私の心配をする前に自分の心配にエネルギーを向けて構わないのに。もっともっと手を抜いてもかまわないのに・・・。私の話を聞かずにそんなにまくし立てないで欲しい。そういう気を許してくれない。この人は私を見ていない」

 「私は大丈夫です。その善意は自分自身を助けるためにお使いください」。そう相手の心に伝えられたら、助けるべき相手を間違えてしまったエネルギーが彼自身に戻り、自分が世界を見通すのに使っているレンズが曇っていることに気づき、拭い去ることができただろうに」

 “偽りのない善”のそばにはどんな時も自分を優先する“悪人”がいた。「手を抜くのが上手い」あるいは「やるべきことをやって、あとは自分のために動く」。そういった人々は“善人”を「余計なお世話をする人」「都合の良い人」として認識する。まず自身にエネルギーをあてがうこと。「だれかのため、なにかのため」その言葉は封印しなければならない。「私がやらなければならないこと」「私がしたいから」こちらの言葉を鍛錬する。

 私は歪んで頑張った私の足跡の後始末をする。それをしなければならないから。

 私は石上静香さんに好かれたい。好きになってもらいたい。だから石上静香さんを応援し続ける。どちらも私自身の願望だ。どうか、私がもう一度がんばれますように。薬が効いていて前ほどのエネルギーが出せないから、少しずつ、まずは自分から、歩んでいこう。じゃ、明日はまた病院にもどらなくちゃならないから、やらなくちゃいけないことがあるから、じゃあね!

 あ~あ、めっちゃ部屋汚れてるからがんばって綺麗にしていかなくっちゃ。